院長略歴

広島大学附属高校卒業
昭和63年山口大学医学部を卒業し、痛みに苦しむ患者さんの治療がしたくて広島大学医学部整形外科に入局しました。学生の時は脳神経外科に進もうかと思ったこともあるのですが臨床研修のうちに整形外科入局を決めました。

○広島大学医学部附属病院で研修
 広島大出身の同期生を差し置いて春一番に整形外科医局に出頭しました。指導医の厳しい先生たちに手の外科の基礎を叩き込まれました。県中部から紹介されてきた関節が固まって全く動けないリウマチの患者さんに衝撃を受けました。関節リウマチ診療グループに参加させてもらいました。夜12時前に帰るわけにはいかない生活でとにかくよく学びよく怒られましたが患者さんのために尽力する姿勢はその時からです。

○県立身障者リハビリテーションセンター
 県内で最もリウマチ手術の多い病院で、多くの手術を通じてリウマチ医として貴重な経験を積みました。世界的に高名な名誉教授センター長の先生にも手ずから教えを受けました。後年東京女子医大に研修に行ったときには東京の先生に羨望の目で見られたものです。ご著書にサインもいただきました。
手に負えないリウマチ患者さんに使われたメトトレキサートの効き目を初めて見て瞠目し、薬物療法へ強い関心を持つきっかけになりました。

○松山市民病院
 上級医の先生の指導の下たくさんの外傷治療を経験し、やっと一人前の整形外科医に近づいた気がします。他科の若手医師たちとの24時間救急医療は苦しかったけど今となってはいい思い出です。準夜勤務のあとに呑みに出かけたり、実力のつく盛りだくさんでみんな大好きな松山勤務でした。

○県立広島病院
 当時は関節リウマチの治療に関心を持つ医師がいなかったために、なかば押し付けられたリウマチ患者さんをひそかによろこんで治療しました。今では関節リウマチ治療の主役となったメトトレキサートを1994年ごろから投与しはじめ、患者さんもだんだん増えてきてやりがいを感じましたが3年で転勤となりました。副医局長なども務め、当時の内科桑原院長先生とはいまでも診療上のお付き合いがあります。

○公立三次中央病院(当時)
 県北の基幹病院で、多数の外傷手術を行う一方で難易度の高い関節形成手術も手がけました。いまから考えても難しい手術をがんばってしていました。父の出身地ということもあり張り切って働いていました。病院の敷地内に医師官舎があり内線電話もあって若手医師は週に半分は24時間自宅待機でしたがやりがいのある地域医療でした。

○国家公務員共済組合連合会 吉島病院
 医長として赴任しどんどん患者数を増やしました。他院での最初の手術がうまくいかなかった症例の再手術を一人でするなどたいへん意欲的でした。関節リウマチの治療も本格的に開始し成果を挙げました。当時から診ている患者さんのなかには20年後のいまでも当クリニックに来てくださるかたもおられます。また全国的にも高名な先輩医師の指導のもと、多くのスポーツ肘肩障害(プロ野球選手も含む)の治療にも関わりました。現在は手術を必要とする障害は広島大病院に紹介させていただきます。

○東京女子医大附属膠原病リウマチ痛風センター
 どうしても関節リウマチの勉強がしたくて広島大整形医局にお願いし世界最大級のリウマチセンターである東京女子医大附属膠原病リウマチ痛風センター整形外科へ短期研修に出かけました。整形外科を中心に内科の回診やカンファレンスにも出席して勉強させてもらい、自分のしてきたことに自信を持ちました。当時のスタッフの先生とはいまでもお付き合いさせていただいています。

○済生会広島病院
 学んできたことを生かすべくリウマチ外来を開設しました。新しい治療によって症状が劇的に良くなる患者さんも多くすばらしい手応えでした。生物学的製剤も当初から市販後調査に参加し、各地での講演会、呉でのリウマチ勉強会の世話人も務めました。
しかしリウマチ以外の患者さんも増えるばかりで、手術、会議や書類書きなどどうやっても時間が足りなくなってきました。診療中に自分の気が遠くなりあわてて頭部MRI検査をするようなことも続き、とうとう限界と判断して勤務医を退職しました。

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